【会津嶺 2025年4月号】 神社・暦(とき)を超えて

コラム

世界複合遺産と海、山、川、人 その3

もう一つ〈保科>関連の神社を挙げておこう。 「会津総鎮守・諏訪神社」 である。 (※諏訪─新編会津風土記に倣う。以下風土記という。)
この諏訪神社は、鎌倉幕府成立前後の政情混沌の時期を色濃く反映していて、特にその混迷ぶりを遠く会津にまで持ち来たった感は否めない。風土記には「昔、蘆名氏が新宮氏を征伐すべく河沼郡笈川村まで来て陣を引いたとき、鉾を担いだ <諏訪の社司>が現れ、『諏訪は軍神だ。 これは縁起が良いことの証だ』などと言い放つので、軍の先頭に立たせて戦に臨んだら、新宮氏はそのまま降伏した」ので、蘆名氏が諏訪明神を諏訪大社より勧請したと記されている。
しかし、「鉾」は八幡太郎(源)義家の「鉾スギ」 (茨城県大子(だいご)町・近津(ちかつ)神社)の鉾や伏見稲荷大社の杉(慶徳稲荷神社)を連想させ、諏訪二之宮下社小野神社の「鐸鉾」(さなぎほこ)を伏せつつも、伏見天皇の御代(永仁二年・1292年)に合わせての「勧
請由緒」となっている。だが、本来は「諏訪大社下社(しもしゃ)」そのものの会津への遷座 (宮) ではなかったか、との疑問を拭いきれない。
この「諏訪の社司」は、木曾(源)義仲が婿入りしていた「諏訪の下社」の社司だったのでは、との思いが先に立つからだ。 つま
り義仲が討たれ、下社の「大祝(おおはふり)」に類が及ぶのを避けての会津への必死の避難行動だったのではとの推測である。「星
名党」は義仲の先兵集団であり、会津恵日寺僧兵 (衆徒) 集団を破った者たちで、蘆名氏の傘下に入ったとなれば、さしもの新宮氏も手を引かざるを得なかったであろう。
後に、「耶麻郡慶徳組新宮」の人々が黒川 (会津) 城下に移住むことになったのは、そのことなどを反映しているのかも知れない。
なぜこのような疑問を呈するかというと、どうしても日本三大和暦の一つ「会津暦」あるいは「諏訪暦」の突然の出来(しゅったい)理
由が見出せないからなのだ。福島県立図書館によれば会津暦の起源を永享年間(1429~1441年)に置いているのだが、しかし会津諏訪社にはすでに笠原、佐久、諏訪の「祝はふり)」三者が揃っており、「元号」 そのものが「暦」であることからすれば、「祝神事」においても暦づくりは欠かせないものであったと思われる。大社の下社には春宮秋宮がある。暦そのものと言っていいけれど「作暦」が大社由来のものかどうかは判然としないのだが、しかし、先の杞憂は現実となっていて、「諏訪の大祝」は「鎌倉右大将家(源頼朝)より死を賜った」と風土記には記されている。 その嫡子は「相州・小野邑」に匿(かくま)われ、長じて勧請の際に会津にやってきたというのだが、相州小野邑ではなく、伊豆国の上・下小野村の間違いであろう。「豆州賀茂郡下小野村之内字河合」である。三島大社の三島暦師の河合家に「祝子(はふりこ)」は育てられた。その薫陶の賜物により、後に会津でも「作暦」が日の目を見ることになったのではとの思いを強くする。
室町幕府には吉田神道より格段の計らい、そして江戸幕府では吉川惟足の特段の推挙によって会津、いや日本において「諏訪大祝」は神道の体現者「神職諏訪近江」として再現した、ということになる。

東洋文化財研究所 松本 日世