昨年6月から、喜多方市に鎮座する慶徳稲荷神社について、縷々語ってきた。稲荷神社といえば、子供の頃、よく油揚をお供えに鶴ヶ城稲荷神社にお参りしていたことを思い出した。お供えするのは神社の方ではなく、その右脇に植っていた松の木の根本の、狐が一匹やっと入れるほどの暗い穴に、お供えするのである。翌日行ってみると綺麗になくなっていた。お城は、サーカス会場になったり、動物園になったり、はたまた競輪場に姿を変えた。初めて象や海亀に乗せてもらったりしたことを今も覚えている。まだテレビのない時代だ。千変万化するお城との関わりは、高校を卒業する頃まで続いた。学校は南町にあったから、西出丸を左手に見ながら121号線を南下して向かうのが日常だったが、入学した年の暮れ、学期末試験中に校舎は焼失した。そのため通学する所は、鶴ヶ城体育館に姿を変えた競輪場の車券売り場兼事務所の木造二階建ての校舎になった。翌々年には、新潟地震で大揺れに揺れた。卒業式だけ新築なった校舎で行われたが、感慨深いのは競輪場のバンクを自転車で駆け下りたときの爽快感の方だ。
そんな特別な感情が湧いてくるお城の南側には、湯川が流れていて、天神橋がかかっている。その川端の土手には菅原神社が建っている。その境内には見過ごすほどに小さなお社がある。松本稲荷神社だ。この神社を知って驚いた。校舎の火事は初めてではなかったのだ。昭和10年の3月28日、新築落成なったその日に校舎が焼失していた。
この神社のご難は、鎌倉時代に会津の領主となった蘆名氏の美里町(旧会津高田船岡)からの強引な遷座から始まっている。その被害者は鶴ヶ城と深い関わりを持つ松本氏ということになる。向井吉重の会津四家合考では、松本氏の蘆名氏への謀反事件が度々出てくるから、あながち松本稲荷神社の由来が書かれたその立札を軽々には無視できない。伊達政宗との敗戦も、戊辰の役の災厄も、あいも変わらず神威を蔑ろにして「尊崇の一念」の意味を忘れた者たちへの鉄槌だったかもしれない。ましてや稲荷天神のその橋を、見下ろすように学問の神様「菅原道真」と一緒に祀られている。まさに彼は、日本三大怨霊の第一人者ではあるのだから、その神威は止まることを知らない。狐火どころの話ではありえない。本来あるべきところにこの二神は置かれていないのだと思われる。コンパス(方位計)が、逆さになってしまっている。これは、日本を誕生させた伊弉諾伊弉冊尊を、無視することと同義である。旧石器時代から古墳時代に至るまで、方位は極めて重要な標(しるべ)であった。
会津藩主保科正之が体験させられた、大江戸の大災厄の振袖火事は、神社における方位を無視した配置は悲劇を招来してしまうことを悟らせたに違いない。家康の墓所も、正之の墓所も彼らを支えた民人(たみびと)を守るべく、狂いなくコンパス上にあることを忘れてはなるまい。
よって高麗(こま)紐を結び「会津嶺」に誓おうではないか、今年こそは日本初世界複合遺産登録をと。
東洋文化財研究所 松本 日世