【会津嶺 2024年11月号】 正之と神社Ⅱ

コラム

慶徳稲荷神社と世界複合遺産 その6

戊辰戦争の誘因となったペリーの日本来航の際に、その彼がクレパトラ・
アイランドと名付けた島がある。珊瑚礁の島、喜界島だ。
大島紬の「泥染」でよく知られている。この島での紬の染色がなければ、大島紬の色合いの素晴らしさは生まれてはこなかったであろう。
この島で、キラキラと輝く極細の繭(まゆ)糸を空中に晒して、一本の編み糸に仕上げる様子は、日本に養蚕をもたらした天竺の「金色姫」の説話を思い出させる。自らが蚕になってまで、己が身を包む絹布を生み出すもとをこの国に与えてくれたこの姫と、大きな争いのもとをもたらしたペリーとは雲泥の差と言っていい。
その養蚕の歴史を今に伝えている神社が会津若松市にはある。
養蚕国(こがいくに)神社だ。幾たびもの戦禍や自然災害によって、荘厳さを誇った社殿も、ひと抱えもない小さな祠にまでなってしまっていたのを、現在の姿に復興させたのが保科正之だった。 その祠の御神体(金色姫)は、天羽車(あまのはぐるま)に乗っていま夜空に輝いている。馭者は吉川惟足というところか。
そして、なぜかここには伏見稲荷社同様、稲荷五座が鎮座している。更に、奇異なことには白狐が一匹も見当たらない。神社の由緒書には、病脳山(磐梯山)の噴火(大同元年)の後、空海が朝廷から遣わせされ、会津の八田野稲荷ケ森の沢水で、真綿をそれに浸している姥に出会い、ついにはその姥は、京都伏見の稲荷山に白狐に乗って降りてきた伊弉冊(いざなみ)であり、稲荷明神そのものであることを告げられる。
この説話通りに考えれば、伏見稲荷社の明神を奉斎する「秦氏」と機をいつ一にしている事が分かる。「秦(はた)」は機織(はたお)りもの、そのものを表した言葉だからだ。
西国では、稲荷明神(伊弉冊)を秦国のシンボルとし、東国では「金色姫」をシンボルとする秦国があったということができる。
ただ、この姫君が我が国に漂着したのは豊浦の港(茨城県)だとされるので、西国の秦氏や秦の民の多くが金管伽耶国(朝鮮)から渡来してきたのとは異なっている。
しかし、この金管伽耶国の王は首露王で、その妃は、それこそ
インドの阿喩陀国(アユタヤコク)の姫「許黄玉」だから、史実とは言えないまでも、古代における会津と常陸の交流は、白狐ならぬ白鹿を通じてあったとの伝承は残されており、この蚕養国の成立は、京都伏見のそれよりも古い可能性はあるだろう。
それにしても、正之のこの神社再興は、それらのこと全てを知悉した上で、ここ蚕養国神社に、伏見稲荷社と同じ稲荷五座を祀ったのではないかと推察せざるを得ないほど、徹底した仕儀ではあるのだ。
正之にとって、「稲荷」とは、おそらくは「東照大権現」、それを極めて個人的な親身と言えるほどのプライベートな呼び名に置き換えれば、「伊奈利(いなり)」そのものでなかったのか。それを感得したのは会津入府で初めて出会った慶徳稲荷神社であったろう。
そして江戸の彼の屋敷にはしっかりと稲荷社が祀られており、日頃礼拝を怠ることはなかったとある。

東洋文化財研究所 松本 日世