先の会津嶺6月号では、今年世界遺産登録20周年を迎えた熊野古道の「熊野詣で」にふれ、7月号では、まだ世界複合遺産登録になっていない飯豊山登山道にふれていた。
熊野詣では、熊野三山の熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の三山を参詣することをいうのだが、これが盛んであったのは、平安中期から鎌倉時代にかけてといわれていて、この慶徳稲荷神社の創建もその時期に重なってくる。 しかも創建の、その重要な使命を担ったのは、鈴木蔵人元行(穂積家先祖)で
ある。新編会津風土記では「鈴木某(なにがし)」と書かれてはいるものの「本山派の修験者」とまで記されているところを見れば、勧請人義家以前に、会津における天台(最澄)系と真言(空海)系との、会津地域における宗教関連の動きがあったことが分かってくる。 とくにこの地における恵日寺との関連を見過ごすことはできない。
いかにも、このことを証するかのようにこの神社にはそこかしこにそれらの遺品が残されている。ほとんどが戊辰の役で、時間を止められてしまっている。只々、文化財としての評価を待っている。
なかでも驚愕させられたのが、この像である。(写真1)。これまで一度も目にしたことない彫像であったからだ。塗色がはげおち、持つべき錫杖(しゃくじょう)も欠けた状態の姿に驚いたわけではない。彫像とはいえ、その眼光の鋭さに圧倒され、しばらくは言葉を失ったままだった。
しかし、「優婆塞」という言葉がなんとか脳裏に浮かんできてくれたから、それをキーワードに探したら、ウェブ上で「仏教大学宗教文化ミュージアム研究紀要」を見つけることができた。表題が「寄託資料随考―基層の役行者「像」という論文である。 掲載され写真から、この優婆塞は、間違いなく「役行者」であることが判明した。 これは新たな事件であり、つぶさに史料を精査して突き止めなければならないほどの問題だが、
優婆塞(せきしゅおんじょう)だけでは隻手音声だ。 まだ優婆(うばそく)を忘れている。 熊野詣では、源氏物語ではないけれど、女を省いては成り立たない。
困ったときの神頼みではないのだが、何はともあれ「奈良博頼み」で奈良国立博物館の公開資料を求めたら、「役行者像」の絹本絵画が見つかった(写真2)。この資料は、実は「飯豊山神社」のご由緒とも一致する重要な「事件」を含んでいる。 先の寄託資料にはなかったもので、奈良博が記す「左手に五鈷杵を持つ俗形の修験者を表しているのが本図の特色である」の「俗形の修験者」のことだが、それが誰かについてまではふれていない。 飯豊山古道との関連で考えれば、それは間違いなく「空海」ということになる。 空海もまた、「飯豊古道」を踏んだ人物でもあることは、古四王(星王)の女人を含む「五王子」が証明するだろう、白狐とともに。(多分「五杵」は、「三鈷杵」の間違い。 そして本6月号に掲載されていた吉祥天女像は、優婆夷像です。 ご再考を。 奈良博 県博御中)
東洋文化財研究所 松本 日世