喜多方市には慶徳稲荷神社がある。そこでは、毎年七月初旬にお田植祭が催される。今年は7日。このお田植祭は平成31年に国の無形民俗文化財に指定された。この神事が催されるようになったのは室町時代とされ、神社自体の創建は平安末期に八幡太郎義家(源義家)によって京都の伏見稲荷神社から「みたま」を勧請したことによるものとされている。しかし義家のこの地への来訪が、彼の父頼義の前九年の役での失地挽回のためのもので、そのために必要な応援をこの地に求めてのものであったとするなら、既によく知られていたあの「京の伏見稲荷」を勧請する意味の重みは十分に伝わってくる。伏見稲荷の神域・稲荷山が松舞家村(喜多方市敏氏慶徳町)にはあり、今もそこには稲荷神社が鎮座していることを思えばなおさらに、である。 彼は神社建立と戦勝祈願をこめてご神木となる木を植えたのだが、そ
れが今の大杉である。
神社と杉の木は切り離すことができない。 本家(伏見)では、紀州熊野詣での折、京都深草の伏見稲荷に立ち寄り、身の安全を祈願し、杉の木の小枝を身につけて帰ることが平安時代にはすでにならわしになっていたほど、身近なものとなっていた。(伏見稲荷大社史)
しかし、ご神木としての杉はもっと古い意味あいを帯びている。本州の西から東まで、一直線上に横断するライン上のそこかしこにあるのだが、まだ誰も目にしてはいない。それは北緯37度30分線上にある杉の木々で、能登半島突端から福島県南端まで、杉の大木が並んでいるから、試しに地図など広げて探してみるのもいいだろう。見事なまでの東西ライン、ということになる。
神社では古来より方位が重視されてきた。慶徳稲荷神社では北が重視されてきたのだろう。御田植祭の時に担ぎ出される神輿の屋根飾りには玄武(亀)が掲げられている。玄武は、北を象徴する四神の一つ。ちなみに、会津美里町の伊佐須美神社の御田植祭の神輿のそれは、朱雀だから、しっかりと方位が意識されていることがわかる。 朱雀は南を象徴する方位神だ。 現在、奈良のキトラ古墳や高松塚古墳では特別展が開かれているから、それをご覧になれば一目瞭然だろう。
どちらも、古代中国の想像上の化身神と言えるのだが、果たしし、 お稲荷さまというと、化身でもなんでもなく、ただの「狐」ということになるのだが、さて、狐はいったい何者なのだろうか。雪山に残る足跡は、どこを指しているのだろうか。項を改めて考えてみよう。
東洋文化財研究所 松本 日世