慶徳神社は、慶徳町の南西に位置しています。
由緒は諸説ありますが、社伝によると、寛治五(一〇九一)年、陸奥国と出羽国の戦乱平定のために下向した源義家が当地に赴いた際、同町の新宮熊野神社と併せて勧請、創建されたといわれています。
当神社が創建されたのは、寛治五年(西暦一〇九一年)。
当時の御台鎮守府将軍
、源義家は清原武衡・清原家衡の征伐のため、当地を訪れ、京都伏見稲荷山に祀られし稲荷神社を当地に勧請し、神領を寄進。
当神社の別当となったのは、現宮司の始祖である鈴木蔵人元行でした。
鈴木は熊野三山の修験者であり、当神社の創建において、非常に重要な役割を果たしたと伝えられています。
当、稲荷神社の創建奉斎は、大そう古く、寛治五年に堀川天皇の御代鎮守府将軍、源義家が奥州の清原武衡・清原家衡征伐のため下降の際、京都伏見稲荷山に祀られてある稲荷神社をこの地に勧進し神領を寄進しました。鈴木蔵人元行という人(現当神社神官穂積氏先祖)が神に供奉して当神社の別当となったのが始まりです。
その後、領主の変遷や、兵乱が続いたため、その影響で当神社も衰微し、社殿は朽廃し、神木と称する杉の大木が数本繁茂するのみでした。応永三年の春(西暦一三九六年)、当村慶徳寺の開山(寺を建てた人)源翁和尚が霊女の夢知らせによい朽廃した神社の再興を思い立ち、広く勧進(募金活動)により社殿を改造し、境内を整備し昔の姿に復元いたしました。是より領主・地頭など多くの人々が怠らず社殿に補修を加え、毎年二月と十一月の初午の日には、海幸・山幸百味の神供を備え、神徳、霊験あらたな神として近郷、近在より陸続きとして参詣者が訪れ御社の栄えと共に村も賑い、慶徳組の米は、よそに勝るのもこの大神の深い御恵の賜と信じられております。
寛永二十年(西暦一六四三年)保科氏が会津の領主として入国以来稲荷神社を深く崇敬し、境内での狼藉、殺傷、緒木伐採の禁札を掲示し、祈願所と定め毎年大祭日には殿の代参を派遣し、幣帛(神前に供える品々)を献じ、祝詞を奏上し百穀の豊熟を祈願するのが例でありました。
寛政十二年十二月二十九日(西暦一八〇〇年)、朝廷より正一位の神位の宣下がくだされました。
御田植祭の神事は、当神社最大の祭典行事で、七月半夏生に行われる「神輿」には数々の具奉が従い町内を一巡し、御正田に安置され御田の神事が行なわれ、五穀の豊作を祈念されます。御田植歌の歴史も古く、五百年程前に作られたと伝えられています。明暦三年(西暦一六五七年)の頃よりお田植祭は一時すたれましたが、天保五年(西暦一八三四年)再興するに際し、元の御田植歌を会津藩の大学者であり歌人でもある沢田名重が補作し、同藩士で雅楽にも長じていた浦上秋琴が「越天楽調」に作曲し、今日まで歌い継がれてきました。
食物や穀物を意味する「宇迦」を冠する当御祭神は、食物の神・稲の精霊とされています。『古事記』や『日本書紀』にも登場する五穀豊穣の神様です。
多くの神の祖とされるイザナギとイザナミの子で、出雲国で八岐大蛇を打倒した英雄とされています。その勇猛果敢な性格から、悪い気を払う厄除けのご利益が強い御祭神です。
又の名を、大国主神(オオクニヌシ)。「因幡の白兎」や「根の国」などで知られる出雲神話の主神です。縁結び、商売繁盛、病気平癒など、様々なご利益があることでも知られています。
大名牟遅神と共に出雲国を建国した神。医薬や温泉、酒造の神であり、産業神とも呼ばれる存在です。当御祭神に縁の深い、病難排除や産業開発、国土安寧などのご利益があるとされています。